エキスパートコメント
恐れ・忌避・不安の共同幻想に抗することはできるか
2026年07月27日
(公財)世界人権問題研究センター
プロジェクトチーム2リーダー
井岡 康時
嘉永7 年のフェイクニュース
嘉永7年(1854)6月15日。この日の未明に今の三重県北西部に位置する伊賀市域を震源とした大地震が発生した。後年、伊賀上野地震とよばれるこの大地の揺れは、列島の奥深くに横たわる南海トラフを目覚めさせ、同年11月4日の東海地震、5 日の南海地震と連日の激震を引き起した。荒ぶる大地を鎮めようと同月27日には年号は安政と改められたが、列島は安んずるようすもなく、翌安政2年(1855)10 月2 日に江戸に直下型大地震、同3 年(1856)7月23日には東北地方北部に八戸沖地震が起きて多くの人命を奪った。こうした一連の地殻変動は「安政の大地震」と総称され、そのトリガーの役割を伊賀上野地震が果たしたのである。伊賀の地に発した強い揺れは奈良盆地北域にも及んで被害を与えていた。今の大和郡山市中心部は郡山藩の城下町としてにぎわっていたが、この地震によって多くの家屋が倒壊し100名近い犠牲者を出すにいたっている。そのようすを伝える当時の記録(『大和郡山市史 史料集』〔1966年刊〕所収)には次のような興味深い記述がある。
郡山藩では、突然の災害に驚きつつも、ただちに避難小屋を設け粥の炊き出しを行うなど、城下の町人の救援に乗り出した。ところが、夜も更けたころ、抜き身の刀をさげた盗賊が町人たちを殺害してまわっているとの情報が入ってきた。すわ一大事、出動を命じられた若手の藩士らは「鑓、もじり棒、飛口」などの武具をもって城下に急行したが、「右様之者ハ相見ヘ不申(もうさず)、只町方ニ而騒ク斗(はか)リニ而実事不相分(あいわからず)」、そうした乱暴者は発見できず、ただ町人らが騒ぐばかりで実態を確認できなかったという。そのうち、「全くあやかしと相見申候」、まったくの虚言であろうということになってきた。町人らの間で、「地震ニ而南都御番所牢屋敷ゆり倒、牢舎八拾人余追放しニ相成候哉と専ら噂」していたということが判明したからである。「南都御番所」とは幕府領を治めていた奈良奉行所のことで、郡山城下から北東に直線で約6 ㎞、今の国立奈良女子大学の地に置かれていた。この奉行所の「牢屋敷」が地震で倒れ、80 余人の収監者が解き放たれたという根拠のない「噂」が流れたのである。おそらくこうしたデマ情報が、地震におののいていた町人らをパニックにおとしいれ、深夜の騒動の発生にいたったと考えられる。
1886 年の感染爆発と忌避意識
それから30年余り後の1886 年(明治19)。この年、列島はコレラの感染拡大に震え上がっていた。79年(明治12)に続く二度目の大流行で、いずれも15 ~16万人の罹患者が出ている。それぞれ10万余人が落命しているので、二度とも死亡率が7 割前後に達するという惨事が進行したのである。
1879年の流行の後、政府は短期間のうちに多くの罹患者が出た地域に「交通遮断」の措置をとるとの方針を決定した。当該地域への出入を禁止する、つまり、先年の新型コロナの際にも世界中で実施されたロックダウンを実施して感染の拡大を防ごうとしたのである。86年の流行の際、今の奈良県域(当時、奈良県は廃されて大阪府の管轄下にあった)では3カ村が「交通遮断」の対象となったが、このうち橿原市内の1村にかかわる史料群が奈良大学に所蔵されており、明治期のロックダウンの実態と地域への影響について知ることができる。これによると、「交通遮断」となったこの村へは、解除後も立ち入る人の姿が絶えたという。また、あまりの死者の多さゆえに、各地域で複数の村々が組合を設けて共同火葬場を設置したが、この村は周辺村々から、「何時当管内ヘ伝染有哉モ難計(はかりがたく)候ニ付」、我々の村にも伝染するかもしれないとして、組合への加入を拒絶されたと伝えている。こうした大規模感染については、すでに多くの研究があり、京都市域に関しては小林丈広『近代日本と公衆衛生―都市社会史の試み―』がある。小林氏はコレラ感染の拡大と、これにともなう衛生観念の変容が社会的差別増幅の契機となったことを明らかにしているが、都市だけに生じたことではなく、社会相を異にする農村域においても類似の事態が発生していたといえるだろう。
実は、「交通遮断」を受けた奈良盆地の3カ村のうち、前述の1村をのぞく他の2村は被差別部落であった。上掲とは別の史料群からは、この2 村へのきびしい警戒感をうかがうことができる。近世の大和国では70カ村の被差別部落が確かめられるが、1886年の感染で「交通遮断」を受けるほどに多数の罹患者を出したのは、この2村のみである。そのような例外的存在であったとしても、恐怖の経験を通じて社会集団としての被差別部落に対する忌避意識が強まったことは、小林氏の研究に徴しても容易に推測できるだろう。
21 世紀の根拠なき不安
それから130年余り後の21世紀初頭。滋賀県は2021年10月に「人権に関する県民意識調査」を実施し、その結果を24年2月9日付で発表している。調査の質問のなかに「家を購入したりマンションを借りたりするなど住宅を選ぶ際に、価格や立地条件などが希望にあっていても、次のような条件の物件の場合、避けると思いますか」という項目がある。「次のような条件」とは、「①近隣に同和地区がある/②近隣に低所得者など生活が困難な人が多く住んでいる/③近隣に外国人住民が多く住んでいる/④近くに精神科病院や障がい者施設がある」という4件で、それぞれに対して「避けると思う/どちらかといえば避けると思う/避けないと思う/どちらかといえば避けないと思う」という選択肢のなかから1点を選んで回答することになっている。いささか乱暴ではあるが、選択肢の前2者が「避ける」、後2者が「避けない」という傾向を示していると整理すると、①~④の各条件に対して「避ける」と回答した人の割合は、【①43.8% ②47.9%③ 44.7% ④37.5%】となる。およそ4割ほどの人が、「価格や立地条件などが希望にあっていても」、そうした条件が付随するなら避けたいと考えているようすがうかがえる。
滋賀県では5年ごとに意識調査を実施しており、2011年・16年にも同じ質問項目がある。21 年と合わせて比較してみると、4割前後で推移しており大きな変化はない。また、類似の質問は京都府、大阪府、奈良県の意識調査にも採用されており、調査年次は若干違うものの、その結果はよく似た数値を示している。避けたい人が4 割ほどになるという現象は、少なくとも21世紀第一四半期の近畿圏住民に共通してあらわれるといってよいと思う。
なぜ、4割ほどの人は上記の条件を避けたいと思うのだろうか。そのように回答した人に出会って質すしかないが、それができない以上、推測するしかない。おそらく実体験にもとづくものではないだろう。「同和地区」住民や「生活が困難な人」、「外国人住民」などと交流して不利益をこうむったといった経験をした人が4 割もいるとは思えない。伝聞やSNS などから得た情報によって脳内に構築された否定的なイメージの蓄積から、ともかくその近隣はご免こうむりたいという反応が生まれたのではないだろうか。
不都合な現実に歴史研究はどうかかわるか
何やらよく分からないと感じたものについて、理解してみようという努力も十分に尽くさぬままに、人は恐れ、忌避し、ともかく距離を取ろうとするようである。こうした非理性的世界は科学的思考や合理主義の進化の前に消え去るはずであった。しかし、そのようなことは起きなかったし、悪罵が憎悪を煽りつづける眼前の情勢を見れば、魔性のモノが横行したという中世の世界に、今もなお私たちはあるかのようである。自由と平等を標榜した近代はどこにいったのかと嘆ずるしかないが、かかる不都合な現実の前で歴史研究は何ができるだろうか。膨大な史料を集め、解析し、事実はかくあったと示すことが、我ら歴史学徒の責務であると応答して拙文を閉じれば、とりあえず体裁はつくろえるのだが、それではデジタル空間から溢れ出る大洪水を戸板一枚で止めようとする愚をさらすようなものである。しかし、愚だからとて手を止めることができようか。
今から170年余前の昔。「全くあやかし」と分かるまで、「只町方ニ而騒ク斗リ」の夜の町を、命を救おうと駆けに駆けた若き藩士らの労苦を思えば、休むわけにもいかないではないか。




