創立20周年 記念講演会
危機を乗り越える文化-講演要旨-
ノーベル賞作家 大江 健三郎 氏
●脈絡-本を通じての交流
私は専門の学問をする前に小説を書き始めたものですから、専門家の友人、あるいは一緒に学問をした友人がいるわけではありません。しかし、二人の学者が私にとって非常に大きい存在であります。その先生方のご本はすべて読み、引用されている文献も全部読むということをしておりました。一人は東大のフランス文学科の先生である渡辺一夫先生であり、もうお一人は英文学の先生である京大の深瀬基寛先生です。そういうふうに素人の勉強をしている人間も、自分の素人の勉強なりに本を通じて筋道というものができあがってくる。それを私は読書による脈絡と呼んでいます。自分の人生の本を通じての脈絡というものが生じて、いつの間にかその本を書いた人との実際の付き合いというものも生じます。エドワード・ワディー・サイードという人ともそういう形で脈絡が生じました。
●危機に直面する技術としての文化
私の友人である山口昌男という文化人類学者は、自分の文化人類学を世界中の文化を比較するものとしての比較研究と捉えています。彼は、『学問の春〈知と遊び〉の10講義』という本の中で、「今日比較研究をやっていく場合に、いちばん重要な課題は何かというと、文化は普通そう考えられていないけれども、危機に直面する技術である」と言っている。人間が陥る危機にどのように直面するかという技術を人間に与えるものが文化だと彼は考えている。個人あるいは民族がその危機を乗り越えるために、まずその危機に直面するための技術というものを自分の中につくりあげた。それが文化であって、文化の歴史というものは、いかに人類がその危機を乗り越えたか。そのために人間が開発してきた技術の歴史が文化史なのだ、というのが彼の考え方です。
●人権と平和の源としての自然
もう一人の友人であるテツオ・ナジタは、最近『Doing思想史』という本を書いています。彼は日本の近世の専門家です。18世紀なかばから19世紀の日本の民間の学者、たとえば二宮尊徳や、東北の農業の指導者だった安藤昌益、あるいは大坂の懐徳堂という学問所をつくってそこで教えた山片蟠桃及び石門心学を唱えた石田梅岩という人たちについて研究をした人です。そして、「二宮尊徳は本当の知識をもとうと思えば自然を読めといった人なのだ」というのです。自然を見て、自然を理解するということが、本当の農民にとって必要な知識を得ることなのだ。自然こそが言葉だと彼はいった。自然の文法を知ることが私たちの教養だというのです。彼は自然というものが人権の源であり、自然というものを大切にするほかに人権を大切にすることはできない。そして、平和はエコロジーにとって不可欠であり、エコロジーは平和の前提である。日本人が自分たちの憲法を平和憲法というのだったら、平和をつくりだすために自然というものがなければならない。平和とエコロジーが二つの柱として日本の憲法を支えているというのです。
●人権受難の世紀から人権文化を創造する世紀へ
この講演会に招いていただいた上田正昭先生は、古代信仰研究の集約としての『神と仏の古代史』という本の中で、すべてのものに神が宿るという日本人の自然観を明確に分析しておられます。そのなかにこういう文章があります。「20世紀というものは戦争の世紀だった。核兵器、自然の破壊と地球の汚染も著しくこの20世紀にあった。民族間の紛争がある。宗教の対立がある、難民が増えるということがあって、20世紀は人権受難の世紀だった。そしてこの20世紀の矛盾と対立の実相をしっかりと見極めて、新しい世紀を自然と人間が共に生
き、共に栄える、まことの平和の世紀を着実に構築していくことが肝要となる。そして人権文化を創造し、自然と人間の命が輝く人権の世紀を実現していくことが大切となる」と結論されています。私はそのことは本当に大きい意味があると思っています。
人間が個人の危機を、集団の危機を、世界の危機を乗り越えるために技術をつくりだす。戦争とか、世界の環境汚染とか、自然の破壊というものが私たちを危機に陥れている。その危機にどう直面するかというときに、自分たちの人権というものを中心に根本から考え直す必要があると思います。このように上田先生の考え方はナジタ・テツオと結びつき、山口さんとの意見とも結びつく。そのようにして私は、人間の権利というものをお考えになっている世界人権問題研究センターという、この場所があり、この研究者たちの集まりがあるのだということを皆さまにお話したいと考えたわけです。(文責 坂元 茂樹)