創立20周年 記念講演会

緒方貞子氏 講演会

開発と人権 -人間の安全保障、平和をめざして-

独立行政法人国際協力機構理事長
緒方 貞子 氏

 皆様、この桜の素晴らしい週末にお出ましいただいてありがとうございます。私、ただいま御紹介いただきました、国際協力機構の理事長をいたしております緒方でございます。今日は、「開発と人権~人間の安全保障、平和をめざして~」ということでしばらく皆様にお話し申し上げたいと思っております。

●はじめに
 世界人権問題研究センターの創立一五周年で、私はこの立派な研究センターができましたこと、そしてこれが引続き大事なお仕事をしていただけるということでお祝いを申し上げると同時に、今後ともよろしく御活躍いただきたいというお願いを申し上げたくて今日うかがいました。

94年にこの研究センターができまして以来、国内外の研究者をお招きになり、また、国際的な人権保障体制や定住外国人、女性の人権など、世界的な視野から人権問題を研究し、そして啓蒙を続けておられるというように承知しております。人権問題に対する公正で、正確な理解を促進することは生易しいことではございません。それを公開講座などを通して、また人権教育にも広く貢献しておられると承知しております。その一環として、今日ここにうかがいまして皆様にお話し申し上げることができることを御礼申し上げたいと思います。
 ただいまも御紹介がございましたように、1999年11月に京都で開催されました世界人権宣言50周年を記念したシンポジウムにもお招きいただきました。私にとっては、京都は人権というものと非常に密接に、皆さんの関心の強いところと承知しております。そのときは国連難民高等弁務官として働いておりましたので、世界の難民問題に焦点を当てながら、人権と人道の原則、そして難民保護にあたってどのように人権が重要な原則を出しているか、またどういうことを人権から学んで私どもの仕事にあてているかということを中心にお話をいたしました。
 今回は、現在の国際情勢のなかで「開発と人権」をどのように捉えるべきか、また「人間の安全保障」という考え方も今非常に広く伝えられるようになってまいりましたが、その視点から今一度、「人権と開発」という問題について考えてみたいと思っております。

●変わらぬ人権の重要性と時代の要請に応じた人権の考え方
 近代社会において「人権」は極めて重要な原則であり、考え方であるということは、九九年の講演のときから変わらず、今まで続いています。どうして国際的に人権が正面から取り上げられるようになったのか経緯を申しますと、まず1945年の国連憲章に「基本的な人権と人間の尊厳及び価値」に関する信念がはっきり確認されております。そして「社会的進歩と生活水準の向上とを促進」するために平和と安全を求めていく、それに当たって人権の保護が大事だということが認識されております。
 国連ができまして間もない1948年には「世界人権宣言」が採択されました。「人権及び自由を尊重し、確保するために、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」というものをこの人権宣言は出しているわけでございます。それ以来、国際社会は、人権宣言に謳われた諸原則を守り、それを生かすことによっていろいろな政策を実施していこう、このように考えるようになったのです。
それは第二次世界大戦、皆さんにとっては昔々のことのように思われるかもしれませんが、第二次世界大戦後の世界において、人権が普遍的な価値であるということを確立すると同時に、人びとの権利が侵害され、抑圧される状況はさまざまであるけれども、それら全部に応えるものとして人権が大事だということを声高く謳ったのが人権宣言であったのです。
確かにそれぞれの問題の原因、人権侵害の状況、抑圧の状況、それへの対応、これはさまざまでございます。世界各地の状況に応じて、いろいろな歴史的経緯、習慣の違いがあり、また、置かれている政治状況によってもいろいろな影響があって、問題への対応も大変複雑であり、かつ多様なものであった。そういう状況のなかで国連の一つの大きな柱として人権の擁護と促進というものがあったのです。
 そういうなかで私がどうして人権に関わるようになったかと申しますと、初めて国連の総会に出席いたしましたのは1968年、40年前になります。そのとき私は日本政府の総会代表団の一員として初めて国連の総会に出席することになったのです。どうしてそういうことになったかちょっとお話し申し上げますと、日本が国連に加盟したときに、日本のなかで女性の人権、地位の向上に努力されました市川房枝先生が日本政府に対して、「国連の総会代表団には必ず女性を一人加えてください」と強くおっしゃいまして、それ以来ずっとどなたか女性の方が、弁護士の方、大学の先生、いろいろな立派な方が入っておられたのです。ところが六八年に突然どなたもいらっしゃれないという状
況が起こりまして、私は市川房枝先生をそれまで全然存じ上げてなかったのですが、突如訪ねてこられて「どうしても行ってほしい」と。それはたぶん、私は当時大学の講師をしており、こういう方面のことを勉強してきたというようなことからの御依頼だったと思います。
 そこで68年に初めて総会に出たわけでございます。伝統的にそういう状況だったということだと思いますが、総会のなかの第三委員会に日本政府の代表団の顧問としてまいりました。この第三委員会のいちばん大きな仕事は何だったかというと、人権だったのです。国連の総会のもとにいろいろな形の特別のテーマがあったわけですが、第三委員会のいちばん大きなテーマは、人権委員会という下部組織からあがってくるいろいろな人権の問題でした。こういうふうな形で、政府間の総会で討議するように、この原則はいいとか、こういうアプローチが必要だという議論をするところに突如出まして、人権の重要性に関する認識を得たのですが、人権といってもいろいろな思惑があるわけです。どういう立場に置かれているのか、そしていろいろな経緯がある、思惑が交錯する、難しい、政治色の強い場でもあった。そこで人権のことを学ぶようになって、その後、繰り返し総会に出席するなかで、かなり人権というものは政治的なものだなということだけはよくわかったのでございます。
 その後、それまではどちらかというと日本は他国の人権問題についていろいろ詮索したり討議したり批判したりすることには遠慮がちの国だったのですが、やはりこういう問題は国際的な問題として正面から取り組まなければいけないと考えて、初めて人権委員会に日本が選挙に立って入ることになり、そして82年に初めて人権委員会への選出が決まりました。そこで、国連を担当している外務省から人権委員会の委員になってほしいということで、82年から三年間、人権委員会の委員としてまいるようになったわけです。その過程で多少、国連がどういう形で人権を扱っているか、どういうことを日本として主張するか等についていろいろ勉強する機会がございました。
 その後、国連では人権に関わる特別な報告者を任命して、人権委員会の討議の土台になるようないろいろなミッションをさせていたのですが、1990年にはミャンマーの問題が、当時はビルマといわれていたわけですが、ミャンマーにおける人権侵害が大きな議題になりまして、特別報告者としてミャンマーに行ってほしいということになったわけです。
 これは政治的に大変に難しい問題でした。なぜかというと、軍事政権のもとで人権侵害が非常に大きいと考えられていたミャンマーだったのです。私に与えられた任務は、人権について相手側政府、つまりミャンマーの政府と話し合って、ある程度の理解を勝ち取り、そして人権をめぐるいろいろな話し合いをしてきてほしいということで、1990年にミャンマーにまいりました。非常に難しい仕事でした。今考えてみても、最も難しかったミッションの一つだったと記憶しております。そういうことで、こちらが期待し、また要求したいろいろなポイントに必ずしも応じてもらったとはいえないのですが、そういう話をする土台だけはつくって帰ってまいりました。
 その後、私は国連難民高等弁務官になりまして、その後の10年間は、人権委員会の役割としてミャンマーにまいりましたように特別なミッションをするとかそういうことはもうできなくなりましたし、しようとも思いませんでした。なぜかというと、人権と、難民の保護・支援という人道との間には違いがあるということがわかったからです。
 では、人権と人道との間にどんな違いがあり、どういうような区別をして取り組んでいったかと申しますと、まず、多くの難民が発生するような状況はかなり人権の侵害が起こっているところであることが多いのです。ただ、それを人権侵害の問題という形で取り上げて、そして議論し、判断し、それに対して強い批判をするということは難民高等弁務官の仕事ではなく、むしろ難民高等弁務官の仕事としては、そういうなかにある人々が自分の国を追われて国境の外に出た場合に、それを保護し、支援していかなければならない。
 ですから、そういう人権侵害に対する政治的な判断と、判断はするとしてもそれに正面から対応するのではなくて、被害にあっている人々を保護し、助けていくという仕事の間にはきちっとした相違があったのです。その相違を十分に認識しながら結果的には人権の擁護に貢献はしたのですが、貢献の仕方が人道的なやり方でいくのと、人権というものを正面から捉えて侵害の状況を批判し、糾弾していくというやり方の間には違いがあった。そういうなかで難民高等弁務官時代には、正面から取り上げることはいたしませんでしたけれど、人権の問題に認識を深め、また人権の侵害によっていかに多くの人々が苦しむかということはよくわかったと思っております。

●開発や人道、人権を考える上での視点――グローバル化による影響
 そういうなかで、それでは人権とか人道はどういうふうに扱っていけばいいのか、国際的にはどうしていったらいいのかという問題が広く考えられるようになってまいりました。それは大きくいえばグローバル化というものが、人権の取上げ方にしても、人道問題の追求にあたっても大きな影響を与えだしたのです。
 最近ではグローバル化ということが普通のことのように話されていますが、どういうことが大きな違いをもたらしたかというと、情報通信技術と運輸交通技術の発達によって、人の動き、物の動き、お金の動き、情報の動き、これが非常に変わってきたのです。一瞬のうちに、ヒト、モノ、カネ、情報が世界に広がる。そういうなかで世界各国・各地域における経済の成長も促進されますが、格差も出てくる。そして国際的にも国内的にもいろいろ新しい情報によって刺激を受けることがいくらもあるのです。そこから起こる不平等の問題に対してどのように対応していくか。今も日本のなかにもその影響があると思います。
 グローバル化の時代でなければ、私たちが考えもしなかったようないろいろな現象は起こってこないのです。そういうなかで政治的、社会的、経済的な機会と権力の配分に見られる不平等への対応が大きな課題になってまいりました。そのためにはいろいろな意味での制度改革が必要になってきたわけです。グローバル化がどのように私たちの生活に影響があるかということを考えるときに出される一般的な例として、環境汚染、エイズ等の感染症、国際犯罪・テロ、これがいかに速く広まっていくかということが挙げられるだろうと思います。面白い例をちょっとお話すると、皆さんがそんなものかとお思いになるのは、私が難民高等弁務官になりました最初の年に、アルバニアという国から、これは共産政権の非常に開かれていない国の例だったと思うのですが、そこから隣のイタリアにたくさんの難民が突如出てきたの
です。どうしたのだろうと。一つはテレビの普及によってアルバニアの人もイタリアのいろいろなコマーシャルを見ていたのです。ネコが銀のお皿の上で餌をもらっているコマーシャルを見て、「ネコでさえもあんな銀のお皿の上で餌をもらっているのなら、私たちがイタリアに行けば十分食べられるだろう」と。ベルリンの壁の崩壊もこういう現象だったのだと思うのですが、そこでワッとイタリアに何百人もの人が来てしまって、イタリアとしてはこういう形で突如の難民の受入れをしたことがないというので、いろいろ支援を申し込まれて私どもが行って、難民を識別して、仕事がありそうな人とか、こちらに移ってくる必要のなかった人とか、そしてアルバニアにおける食料の自給問題にも対応するということをしました。これは非常にわかりやすい例ですが、グローバル化の時代、私たちの生活のなかにもこういう要素はいろいろあるのだろうと思うのです。
 相互依存が進展している世界のなかで、自分たちだけが安全でいられるという幻想をきちんと整理して、どうしたらグローバル化のなかで安全で安定した生活を多くの人々がすることができるのだろうかという模索が始まったわけです。どうやって人権を自分の国のなかでも、周囲の国のなかでも守っていくか、そういうことを通して紛争に対応する、あるいは貧困に対応することができるのだろうか、こういう考え方の模索が始まったわけです。これが「人間の安全保障」という考え方を生むようになるわけでございます。ただ、今までのように固定した考え方で人権とか人道ということを考えていたのでは十分でない。したがって、こういうグローバル化の世界のなかにおいて新しい形の相互依存というものをどうやって意味のあるものにしていくか、こういう大きなテーマが出てきたわけでございます。

●人間の安全保障概念の導入
 たまたま日本におきましても、これは非常に違った方向からの発想だったと思うのですが、1997年、今から10年ちょっと前にアジアにおける経済危機が起こりまして、そのころ東南アジアの国々はかなり経済が成長してきたにもかかわらず、経済危機の影響で人々の生活は非常に不安定になって、家族が明日の食事が食べられるだろうか、病気になったらどうしたらいいのかという社会不安の状況が広がったわけです。そのときに当時の小渕総理大臣は、もう少し社会的な安全、「ソーシャルセーフティネット」が必要だと考えられたのです。最近また金融危機が起こってからソーシャルセーフティネットを重視する考え方が広まっておりますが、ソーシャルセーフティネットというもの、社会的な安全網をつくろうというわけです。それはどういうふうにしたらいいのだろうか。もう少し、人々の社会的な生活、家族、医療、収入、そういうものを見ていこうということから、これを「人間の安全保障」と呼んだのです。こういう「人間の安全保障」をもっと今後は考えていかなくてはいけない、経済成長だけではだめだということで、これを提唱されまして、それがさらに広まって2000年の国連総会のときに、「人間の安全保障」という考え方をもっと調べようじゃないか、追求しよう、そしてそれを広めようという申し合せになりまして、そのときには小渕総理は亡くなられていたので森総理と国連事務総長のコフィアナンさんの間で、「人間の安全保障」という考え方を定義し、これを推進するための委員会をつくろうということになりました。
 またいろいろな巡り合わせがありまして、私はちょうど難民高等弁務官を辞めたときだったのですが、「人間の安全保障」の定義と、これを政策的にどうやって推進していったらいいかということを考えるための委員会の共同議長に任命されました。非常に有名なインドの経済学者で経済学でノーベル賞を受賞されたアマルティア・セン教授、時折京都に来て講演をなさっておられたのですが、アマルティア・セン教授と共同議長となりまして二年間にわたって、「人間の安全保障」の概念を定義するという仕事をしたわけでございます。この結果、「すべての人が、基本的な権利と自由の上に立って生存し、生活し、人間としての尊厳を十分に尊重される存在となること」に向かって、どうやって国際的な合意をつくっていったらいいかという、そういう考え方を定義づけようとしたのです。
 そのときに出しました結論を簡単に申し上げますと、人々は保護されなければならない。政府がちゃんとしなければならない。政治体制もきちっとしていなければならない。こうした上からの保護の一方で、人々が相当の能力をもち、自分たちを治める、簡単にいえば自治能力とでも申しましょうか、教育を通し、努力をして、いろいろな情報を確保することによって自分たちの統治能力を高める、つまり統治と自治を両方からやっていかなければならない。人々による能力向上と政府による保護の徹底、そういうことを合わせた形の政策を進めていこうと提案したわけでございます。
 ですから、国家や政府による人々の安全、基本的な権利や自由の保護の強化、これをすると同時に、人々が知識をもち、自分たちのために行動できる能力を高めていかなければならない。そういう両側からの向上をもとにした「人間の安全保障」という考え方が広まりまして、日本でもいろいろな大学で「人間の安全保障」についての講義とかセミナーとか、教科書まで最近は出たのですが、そういう動きが進んできたのです。
 ですけれど、これは確かに理論的には一つのいい解決策を提案したと思うのですが、いったいどういう形でこれを実現していったらいいのだろうか、そういうことを大きな課題として考えまして世界の現状にあてはめてみますと、まだまだ答えには至らないということを私どもも十分認識したわけでございます。

●相互依存の世界における人権・平和と安全のための包括的なアプローチの必要性
 世界は相互依存が非常に進んでいるのですが、世界に紛争がないかといえば、それどころではなくて、大きな国と大きな国の正面からの国家間の戦争ではなくて、多くの内戦的な状況が広まっているわけです。内戦のなかでは戦闘員と非戦闘員の区別も十分にできない。民族解放や地域紛争では非戦闘員ほど被害が大きいという現状。私が先ほど難民の問題でアルバニアとイタリアの例を出しましたときに、自分の国境を出てアルバニアの人たちがイタリアに来たという話をしましたが、人々が国境を越えて出たときにその保護の責任は難民高等弁務官がとるという整理がある程度できていたのですが、国のなかでそういうことが起こったときはどうなのか。国内において自分の住んでいるところから動かなければならない。政府がきちっと責任をもって、国のなかの人々をみんな守ってくれるのなら問題はないのですが、国のなかでいろいろな紛争や対立が起こってくると、いったいどうやったら人々を守っていけるのだろうかという問題がかえって広まったわけです。
 ですから、文民の保護というものをどういう形で進めていけるのだろうか。「人間の安全保障」の一つの大きな課題は、紛争地、国のなかにおけるたくさんの人々の危険あるいは不安定な状況をどうやったら守っていけるのだろうか。そしてまた逆に、人間の安全保障委員会がいろいろな調査をして検討しましたところ、「何があなたにとっていちばん大きな不安ですか」と聞きますと、これはアフリカで聴取
したのですが、「病気になったときに病院に行けるかどうかわからない。明日の食事があるかどうかわからない。どうやったら食べ物を確保できるのか。それが私たちにとってのいちばん大きな不安であり、不安定の根源だ」と。ですから内戦による不安から、明日の食事がとれるかとれないかわからない、病気になってもお医者さんのところに行けるかどうかわからないという不安、そういうふうに政治的なものから経済的なものまで大きなレンジでいろいろな不安があることがはっきりわかったのです。
もう一つここで加えたいのは、内戦による不安ということを申し上げましたが、どんな偉大な軍事力をもつ国にもゲリラやテロという新しい形の危険があるということが表に出たのが、2001年9月11日のアメリカのマンハッタンにおける事件でした。それ以降、アメリカのような超大国も、いくら自分の国を守っていても、今のような流動化が激しい新しい状況のなかにおいては、守るということもただ国境で守ればいいのではなくて、国内においてもいろいろ守っていかないといけない。お金が動くからいろいろなテロリストが動ける、人が動けるからテロリストが動ける、そういうグローバル化したなかでは安全についても根本的に考え方を変えていかなければならないという問題が起こったわけです。
 そういうなかで、アジアにおいて日本はソーシャルセーフティネットという形で人々の生活を守っていこうというアプローチをとる。また、世界の方々ではアフリカ等においてもたくさんの内戦があって、政府に頼って安全を守るというわけにはいかない。さらに、アメリカからはテロという新しい現象が起こって、これは国境を越えてどんな危険が迫るかわからない。それにはどうやって対応したらいいかということになって、テロを生み出す現場となるようなところへの軍事的な攻撃ということで、イラク戦争等々の状況につながったわけです。
 そういうなかで、いったい私たちはどういう形で相互依存の世界における人権、平和、安全というものに対する包括的なアプローチを考えたらいいのか、一つのテーマとして皆さんと御一緒に考えさせていただきたいと思います。
 繰り返すわけですが、相互依存の世界においては、人権の最大の課題として脅威があるわけです。これは紛争、貧困、両方からいろいろな脅威が来る。国家の主権だけを守っても対応できない脅威がたくさんある。そうした状況下にあって、どうやって平和と安定というものに一歩一歩でもきちっと対応していったらいいのだろうか。それをいろいろ考えまして、セン教授と私が共同議長を務めました委員会の報告書が2003年にできまして、これは日本語では『安全保障の今日的課題』という報告書になって、かなり広く皆さん方に使っていただいています。そういう形の新しい意味での安全保障を考えていく際に、それは人権、開発、紛争、それぞれに対応できる概念として使っていただけるのではないかということで、かなり一生懸命に「人間の安全保障」という考え方の普及に努めてまいっております。
 ですから、紛争なら紛争で、紛争からどうやって人間の安全を擁護できるような状況をつくりだすのか、貧困なら貧困で、それに対応していくのですが、そこから紛争になるような状況をどうやって予防していったらいいか。基本的には人権があるのですが、紛争のほうからも開発のほうからこういう問題に対応していこうということで、かなりの努力が展開されるようになってきたと思います。
 両方が重なっている状況もあるのですが、とりあえず開発のほうを皆さんと御一緒に考えさせていただきたいと思います。と申しますのは、私の難民高等弁務官時代は紛争等からの人々の保護を中心として仕事をしてまいりましたが、紛争から今度はようやくその紛争を終結できたと考えたときに、そこから経済的にも安定した状況をつくりだして、きちっとした社会をつくるまでの間には大きなギャップがあるということを痛感したわけです。紛争は紛争でいろいろそこに対応してくださる方があるのですが、そこから明日の食事が食べられる状況をつくっていくための経済的な開発までには大きなギャップがある。どうやったらそれをつないでいけるのだろうか、いろいろ試行等を続けました。
 その後、私は日本へ帰ってまいりまして国際協力機構(JICA)の理事長になったのですが、JICAは開発の実施機関で、紛争のことはあまり考えていなかったのです。紛争への対応は他の人がやるべきことで、開発の実施機関としてきちっとした経済開発を続けていけば「人間の安全保障」につながると考えていたのです。確かにそういう部分もあるのですが、やはり人権と紛争と和解と開発というのはずっと続いているものだなということを痛感するようになってまいりました。今までは、紛争のことは政治家とか軍とか警察とかそういうところが対応する。だけど開発のことはJICAとか経済的な開発業者あるいは専門家が対応する。その間に大きな隙間があったのが実態だろうと
思います。最近ではだんだん両側から歩み寄って、開発をしているJICAもなるべく早く紛争後の状況に入っていって、早く正常な生活をつくるために多少危険ななかにも入っていくようになってまいりました。それはやはり、もう一度戻るようですが、相互依存の進んだグローバル化の世界においては、どちらかだけやれば答えが出るということではなくて、紛争への対応も開発への対応もかなり協働してやっていかなければならないということです。
 先ほど御紹介がありましたアフガニスタンを例にしますと、私が難民高等弁務官時代にいちばん多くの難民を発生させた国がアフガニスタンでした。600万人というアフガンの人たちが周辺のパキスタン、イランに出たわけです。私もそういう状況のアフガニスタンに何回か、タリバンが中心になって支配してきたアフガニスタンにも行きまして、何とかそこの人たちの状況をよくしようとしましたし、また何度かパキスタンへもまいりまして、たくさんの難民を引き受けてくれるお礼と同時に、その人たちがどうやったら食べていけるようになるかということも努力してきました。
 難しかったのは、何といっても600万という人たちを国際社会がいつまでも食べさせていかれないということもあって、難民高等弁務官事務所に対するアフガンの難民のための支援金が毎年減っていったのです。2000年は私が難民高等弁務官だった最後の年ですが、本当にお金が減って、いくらアフガニスタンのなかが十分に安定していなくても、帰りたいという人には帰ることを助けなければいけないと思ったのです。ですけれども国際的には、あんなひどいタリバンのいる国に帰してはいけないといわれる。そういう矛盾のなかで私もタリバンの人たちとも交渉して、帰りたい人はいるけれどアフガニスタンのなかが安定しなければ困りますと。また、やはり女の子は学校に行かれな
い。周辺のパキスタン等でも比較的女の子は学校に行かれない状況が多かったのです。女の子が学校に行かれない国には帰りたくないと難民はいっていますと。ですからタリバンが中心になっているアフガニスタンにおいても、女子の教育、また教育を受けていないと仕事にも就けないから女性の就業、そういうことに努力してほしいという交渉までしにいったこともあったのですが、なかなか国際的な支援は得られませんでした。
 それはやはり600万人という数の難民が長く続いていたなかで、支援をする先進国も疲れてしまってあまり乗ってきてくれないで、いわばアフガニスタンは「忘れられた国」になっている状況のなかで9月11日にニューヨークでテロが起こったわけです。そしてアメリカ人がふと気がついたら、アフガニスタンなんてどこにあるかわからないという状況のなかで、突如アフガニスタンを何とかしなければいけないということで、アフガニスタンのタリバンに対する攻撃が始まって、そして最初の時期にはかなりのタリバンが追放される形になって、難民も400万人ぐらいは帰ったわけです。
 そういうなかで、私は難民高等弁務官を辞めておりましたので、日本政府のほうから特別な代表ということで行ってほしいということもあって、それ以来ずっとアフガニスタンとの関わりをもっているわけですが、400万人ぐらいは帰ったのです。そして日本としては、最初の復興会議を東京でやりましたし、国際的にも難民の帰還、復興にかなり努力してきたのですが、ここのところまた状況が決してよくない。タリバンにはいろいろな形のタリバンがあるのですが、アフガニスタンのなかにもいますし、とくにアフガニスタンの国境地域に近いパキスタンの山岳地域に非常にたくさんの人がいて、そこからアフガニスタンにも行きますし、パキスタンのなかにも大きな不安定な状況が起
こっているということで、日本としては復興をきちっとアフガニスタンですると。今の大統領の選挙は2005年にやりまして、きちんとした選挙の上に立った政府もできているのですが、何といっても弱い。そういうなかで、今もどういうふうにしてアフガニスタンのなかにおけるタリバンやその他の不安定な要因を抑えていくのか、そしてまたパキスタンにおいても山岳地域等におけるこういう不穏な状況を抑えていくかというのが大きな問題になっています。なぜかというと、この地域は中央アジアの大きな地域であって余波がどうしても周辺に及ぶからです。そういうなかでオバマ政権は、何とかアフガニスタン、パキスタン問題への対応を今一度力を入れてやろうということで、来週、東京でパキスタン支援会議が開かれます。そこでどういう役割を日本が果たしていけるのか。私はやはり文民が中心になった支援をしてきた日本、軍事的な形での支援はしないと決めてきた日本にとっては、今行っているいろいろな復興援助をもっと面を広げて十分に効果を
出していくことが一つの答えになると考えており、ここのところ新しくいろいろな政策を追求しているオバマ政権のアメリカ、それを支援してきた多くのヨーロッパの国々、また関心をもっている国々との間のいろいろな話し合いを進めております。やはり食べていけなくなると人はラジカルな方向に動いてしまうという危険もあって、アフガニスタンももちろん支援が必要ですし、とくにこれからの半年は大統領選挙の年になるものですから、治安を何とかきちんとおさえて、警察の支援等も今手を打っておりますが、治安をおさえると同時に復興援助をすることによって、少しでもいい生活ができる可能性を人々に分かってもらわなければならない。

●開発と人権
 JICAはこのところ五〇人から七〇人近い職員と専門家を現場に置いておりまして、私としては心配なのです。危険がないとはいえないのですから、危険に対応するいろいろな訓練をしたうえで職員には行ってもらうようにしています。そして防弾車もかなり広範囲に使って、動いている途中でいろいろな危険に遭わないようにしています。それでも人がいなければきちんとした支援はできないのです。何をしているかといえば、まず教育です。学校だけでももう五〇〇校以上つくっています。また医療も大変重要で、先生方がずいぶんいらっしゃって現場で活躍いただいています。以前からアフガニスタンで医療と教育を支援していたのですが、最近ではそれを拡大しております。もう一つは農業です。農業国ですから、いろいろな形で強化を支援してきた農業試験場において、どういう米とか麦をつくっていけば広く使われるようになるだろうかという実験をしてきた成果をもって、もっと広い地域で農業が普及できるような、そういう多面的な展開も試みています。どうして農業が大事かというと、農業国であると同時に、食べていかれないと人々はラジカルになるものですから農業の十分な普及、そしてちゃんとした生産をすることによってケシ栽培等を防止する効果もある。
 ひところ内戦の時代に広がったアフガニスタンの軍閥の解体、それには日本もずいぶん解体の事業をしましたし、警察の強化もやっているわけですが、大きな国際的な協力のもとで何とかして今非常に危険になってきたアフガニスタンの治安を抑えていこうという努力がされているわけです。
 どうしてこれを申し上げるかというと、軍事的な治安の安定だけでは平和は来ないのです。人々が治安の安定によって自分たちの生活がよくなっていくのだという確認が必要です。だから開発が必要なのです。開発だけでも、じゃあ食べられるようになればすべてがいいかといえば、不正があったり不十分な望ましくない政治が行われたりしてもだめなのです。ですから人々の人権というものをプラグマティックに見た場合には、それは紛争、政治、統治、安全、そしてその安全のなかには食べていける、より豊かな生活への道が見られる、そういうことが必要になってくるのです。
 今の平和とか安全とか開発の問題は、グローバル化が進んでいなかった時代よりよほど複雑な状況への対応が必要になってくる。人々はみんな携帯電話を持っているので、情報は直ちに広がってしまうわけです。テレビやラジオによっても広がってしまうのです。ですから情報がどんどん入ってくる。私たち以外の国の人々はみんなよりいい生活をしているというような知識が広がると非常に大きな混乱が起こるわけですから、やはりきちんといい政策をし、それが人々に行き届くような配慮もしなければならない。
 ですから、人々の権利と義務というものに対するインプットもしていくと。受益者である人々に対する答えをきちっと出していくような開発援助が求められる時代になってまいりましたから、アフガニスタンの例を使いましたけれど、「人間の安全保障」というものを土台にした政策をとり、それを現実の状況に合わせて進めていく、それが今の開発援助のあり方であり、平和の推進の条件であると考えているわけでございます。
 もちろん自分の国における弱者への配慮、これは大事なのです。日本においても今、この経済・金融危機の影響を受けていろいろな問題が起こっています。職を失う方たち、また非常に不安定な状況が日本のなかにも、お医者さんが足りないとか、いろいろなところにひずみがたくさん出ています。そういうものに対しても対応しなければ、外の国々に開発援助をしてくださいということはいえないのです。
 ですから私のように開発援助の責任機関であるJICAで仕事をしておりますと、日本の国際的な貢献のなかで最も着実に推進できるものの一つに開発援助があるわけですから、開発援助を進めると同時に、日本のなかにおいても開発援助が目的としている状況が政治を通して実現されることを期待しているわけでございます。私は政治家ではないからそれをする立場にはおりませんが、開発援助を推進する過程で日本のなかにもそういう配慮が必要だということはやはり痛感するわけでございます。
 例えば、日本における派遣労働者の問題にしましても、ブラジルから来ておられる三七~三八万人のことを蔑ろにできない。かつて日本の人がブラジルにたくさん移住したわけです。その子孫の方たちが日本の経済がよかったときに来て、自分たちの祖先の国であった日本でいろいろ働いている。それが急に日本の景気が悪くなったからといって、みんな帰すというわけにはいかないのだと思うのです。
 ですから、国外において私たちが相互依存のなかで推進している人権を中心とした平和や繁栄のためのいろいろな指針というものは、自分の国のなかでも実施していかなければならない。相互依存の時代というのは内外一元化の時代なのです。国外の人々に対する対応も、国内の人々に対する対応も一貫したものがなければならない。そういう一貫したものをきちんと出していく基礎が何かといえば、人権に対する理解と、それを推進していく決意、また実行していくさまざまな工夫というものを考えていかなければならないだろうと思うのです。

●結語
 相互依存の世界では、「人間の安全保障」という考え方のもとにすべての人々の人権を普遍的に一元的に推進していくと。国際的なことを考えるためには国内的なことも考えなければならないし、国内的に考えるときには国際的にも考えていかなければならない。そういう時代に入ってきているのではないかと考えております。
 そういういろいろな考え方の出発点に人権がある。この人権センターを通していろいろな啓蒙活動、あるいは実施活動等々を通して、皆様方と一緒に同じ方向に向かって私もお手伝いしたいと思いまして今日うかがったわけでございます。これから皆さんの御質問をうかがうと聞いておりますので、とりあえず問題提起をさせていただきました。ありがとうございました。