エキスパートコメント

近代の貸座敷と地域社会

2023年07月25日


(公財)世界人権問題研究センター
プロジェクトチーム2リーダー
井岡 康時

はじめに
 近年の遊所に関する研究は、遊廓・貸座敷の内部史料を用いた精緻な内容となっており、娼妓の生活実態や遊客の性格、地域社会との関係などが、より具体的かつ詳細に明らかにされるようになってきた【注】(1)。こうした研究が蓄積されることによって、性の売買をめぐる諸関係の歴史的背景についての解明が進み、ひいては人権課題としての解決に資する議論が深まるのではないかと考えている。
 筆者は近世の奈良町に所在した木辻遊廓の歩みについて、2011年に発表した拙稿【注】(2)で明らかにしているが、さらに研究の進展の驥尾に付することができればと思い、近代以降の歴史像も確かめたいと考えて史料の調査・収集と分析を進めている【注】(3)。小論では、そうした作業による成果の一端を述べるとともに、新たにみえてきた研究課題について報告する。

1、奈良木辻遊廓について
 最初に近世の奈良町に成立した木辻遊廓の概要について述べておく。
 中世の奈良町に所在した木辻郷は、近世的な統治の成立によって改めて奈良町の境域が確定すると、奈良町境外の木辻村と、境内の町とされた木辻町に分けられることになった。この木辻町に遊廓が成立した明確な時期は不明だが、遅くとも17世紀前期に姿をあらわしたと考えられる。廓とはいっても周囲と隔てる壁や堀はなく、女性たちを抱え置いた遊女屋や遊興施設である揚屋は周辺の民屋と庇を連ねていたと推測できる。木辻町だけではなく、その北隣の鳴川町にも遊女屋や揚屋が広がり、しだいに一帯が遊所となっていった。
 木辻遊廓はしだいに成長をとげ、天和2年(1682)刊の井原西鶴『好色一代男』巻二「誓紙のうるし判」に「爰こそ名にふれし木辻町」とあるように、17世紀末までに大和国を代表する遊廓となった。貞享4年(1687)成立の奈良の地誌『奈良曝【注】(4)』には、木辻町に揚屋と遊女屋が各7軒、鳴川町に揚屋6軒、遊女屋4軒があると記されており、まとまった軒数が集まった遊所となっていたようすがうかがえる。
 周知のように、近代になると遊女屋は貸座敷と名を改め、木辻・鳴川両町にあっても貸座敷が軒を連ねて営業を続けた。1889年(明治22)施行の町村制によって、奈良町周辺の木辻村はじめ周辺17カ村と奈良町が合併した近代奈良町が成立すると、これにより旧来の木辻町は東木辻、木辻村は西木辻と称することになった。さらに97年の奈良町の市制施行により奈良市東木辻町となり、一帯は売春防止法施行にともなう1958年の廃止まで奈良の遊所としての歴史を重ねることになった。

2、「奈良木辻町文書」の概要
 筆者の勤務先の奈良大学文学部史学科が所蔵する文書群のなかに「奈良木辻町文書」と題されたものがある。明治期から昭和期の129点が収められており、うち27点は東木辻の貸座敷にかかわる文書であった。小論の主題は、この27点の史料からみえてくる貸座敷と地域社会との関係である。
 27点以外の102点は、東木辻に所有していた家屋を貸座敷経営者に貸し出していた、姓は伏せるが喜六という奈良町在住の人物の家政にかかわるものであった。「奈良木辻町文書」という名称は購入先の古書店が付していた表題を引き継いだものであるが、史料の性格から考えると喜六家関係文書とでも名づけるべきものであると考えられる。
 右の27点から、喜六が貸与していた貸座敷の造りや調度品などが、また娼妓の契約内容なども判明し、近代奈良の遊所の実態を明らかにする貴重な史料群となっている。これらに加えてより重要なことは、貸座敷として使用されている家屋の所有者である喜六と貸座敷経営との関係を読み解くことができることであり、このことを通じて貸座敷と地域社会との関係を新たな視点から解明することができるのではないかと考えている。この問題について次節で述べてみる。

3、貸座敷をめぐる諸関係
 「奈良木辻町文書」のうちの喜六家の家政にかかわる史料を読んでいくと、喜六は奈良町内に居住して酒造業を営むとともに、町内に8軒の家作を有していたことがわかる。このうちの1軒が東木辻にあって貸座敷経営者に貸与されていたのである。
 貸座敷経営者は娼妓と契約を結ぶにあたって、前渡金を娼妓の保護者に支払うのだが、その金銭の準備に窮する者が少なからずいた。喜六はそうした経営者に資金を融通する貸金業者としての側面も有していた。融資を受けた者は家屋を借用していた者のほか、少なくとも3人を確認することができる。
 「奈良木辻町文書」には、喜六から融資を受けた右の4人の経営者が娼妓と交わした契約書が残されている。なぜ喜六の手元に契約書が残ったのだろう。この4人が融資を受けるにあたって喜六に差し入れた借用証文を読むと、娼妓が稼ぐ上がり金のうちから毎日1円程度の額を喜六に返済する旨が記されている。連日にわたって少額を返済するといった面倒なことが実際におこなわれていたのか不審に思われるが、貸借人相互の信頼関係が希薄であることで、そうした返済契約となったのかもしれない。
 注目すべきは借用証文の最後に、返済が完全に終わるまで娼妓との契約書を喜六に預け置くとしていると記されていることである。経営者は融資の担保として娼妓契約書を差し入れていたのである。つまり、喜六の手元に契約書が残された分については、借用分の返金については未済に終わったということであると考えられる。この後、貸金の回収のために喜六がどのような行動を取ったかは不明であるが、娼妓に対する債権者となっていたことは「奈良木辻町文書」の諸史料が明らかにしているといえるだろう。
おわりに
 ここまで述べてきたように、喜六は貸座敷の経営に直接たずさわっていたわけではないが、資金を融通することで性の売買に深く関与していたのである。もはや小論で論じるゆとりはないが、実は喜六は近代奈良の文化史を考える上で重要な人物の1人であり、文人としての側面も合わせもっていた。小論は、そうした人物でも容易に参与できるほどに性の売買というビジネスに関するハードルが低かった時代の話であるともいえる。
 しかし、現代にあっても生活苦に直面した人びとが止むなくダークな世界に足を踏み入れている現実があり、そこにつかの間の欲望の発散を求める人びとの群れが確実にある。喜六をめぐる史料の示す世界はけっして過去の物語ではない。

【注】
(1)横山百合子「新吉原における「遊廓社会」と遊女の歴史的性格 寺社名目金貸付と北信豪農の関わりに着目して」(『部落問題研究』209号、2014年)、同「幕末維新期の社会と性売買の変容」(明治維新史学会編『講座明治維新九 明治維新と女性』有志舎、2015年)、加藤晴美『遊廓と地域社会 貸座敷・娼妓・遊客の視点から』(清文堂、2021年)などがあり、奈良県の遊所を扱ったものとしては、山川均「又春廓川本楼、娼妓「奴」について」(『女性史学』29号、2019年)、人見佐知子「娼妓の前借金返済はなぜ困難だったのか 大和郡山洞泉寺遊廓を事例に」(『歴史科学』251号、2022年)などがある。
(2)拙稿「奈良町木辻遊廓史試論」(奈良県立同和問題関係史料センター『研究紀要』16号、2011年)
(3)その成果の一端として拙稿「研究ノート 奈良市東木辻の貸座敷経営をめぐる諸課題」(『奈良史学』40号、2023年)を発表した。
(4)『奈良市史編集審議会会報一』(1963年)の翻刻版によった。

このエントリーをはてなブックマークに追加